2002年9月25日水曜日

父のこと

2002.9.25〔旧HPに掲載〕

父のこと

亡くなった父、橋本幸次は、明治41年9月25日、富山県高岡の農家に生まれた。子供が多く生活は苦しかったようだ。ちなみに富山の米騒動は父が10歳の時に起こっている。大正12年14歳で上阪し洋服屋の丁稚奉公を始める。技術を身につけ大正14年に16歳で百貨店大丸に裁断士として就職。初任給は巡査の初任給は45円という時代に60円だった。数年勤務した後、独立し洋服店を開業。自転車で注文を取りに回る営業で徐々に商売を大きくし、戦後の混乱期も乗り切る。洋服小売では利潤がとれないと昭和26年には洋服小売店の上流部門である服地卸業に進出し、さらに昭和36年に関西ではある程度の名前が知られた食品会社の経営権を取得するなど、事業の幅を一貫して広げていった。97年に88歳で亡くなったが、その前日まで現役を引かず会社に車椅子で出勤していた。個性の強い人間で、独特の人生観を持っていた。時として周りの人間に辛く当たることがあった。

ぼくは五人兄姉の末っ子として生まれたので、年齢的にも父親とはとても距離があり、あまり一緒に遊んで貰った記憶はない。一度天王寺の動物園に連れって行って貰ったくらいだろうか。でも父は子供たちにはとても気にかけていたように思う。自分に教育がなく苦労したことから5人の子供はどうしても全員大学にやると頑張った。あるとき景気が悪く手形の期限延長を頼まざるをえなかったとき、先方はうちの子供は大学にもやっていないのにお宅は女の子まで大学にやって良い身分だと嫌みを言った。父は即座に「だったらその代わり私がタバコをやめる」と言って禁煙の誓いを立て、以来死ぬまでタバコは吸わなかった。子供の入学試験には仕事をさしおいて付き添っていった。自分が付き添うと試験に通るというジンクスを信じていたからである。ぼくの大学受験のときすら、来ないとの約束にかかわらず、試験の日ボタ餅を持ってやってきた。

ぼくは父親とは幸いにして比較的いい関係にあった。それは年齢的に離れていたことと、一緒に過ごす期間が短かったから故に、適当な距離を置いた関係であったからかも知れない。中学高校は受験校だったのでほとんど部屋にこもりっきりだったし、大学では親元を離れて下宿した。家業とは関係のない民間会社に就職し、それも東京だったし、海外も長かった。年に一二度しか顔を会わさない状況が何十年も続いていた。個性の強い人だったから、いつも一緒に居る家族はたいへんだっただろうが、その点ぼくは恵まれていると思っていた。

でも人生の節目節目で父親の力にすがった。絶体絶命の状況に追いつめられたこともあるが、父は何も言わず精神的、経済的に支援してくれた。普段は憎まれ口ばかり叩いてとりつく島もないような父親だったが、いざというときは積極的に救いの手をさしのべてくれたのだった。おかげでまだぼくはなんとか生きている。

亡くなる二ヶ月ほど前、実家に帰って父の顔を見た。ほとんどものを食べない状態だったが、昔と変わらない長舌ぶりだった。さすがに辟易してお暇を取ろうとしたら、父の口から「おとんぼ」という言葉が出てきた。はじめて聞く言葉だったが、富山の方言で「末っ子」という意味で、「おとんぼ」は家族の中で最後に生まれてきた子供であり、よって親と一緒にいる時間が一番短く、親の愛情を最も少なくしか受けられない子供ということで、可哀想な存在と言うことらしい。「おまえはおとんぼだから可哀想だ」と玄関に出ようとするぼくに向かって、繰り返し、ぼくを見るために椅子から反り返りながら言った。ぼくにとってそれが父の最後の言葉だった。

ほとんど実家に寄りつかなかったぼくの人生だったが、父は、ぼくのそういう生き方を哀み、同時に自分の人生をそれに投影していたのかも知れない。思えばぼくの人生も14歳にして家を出された父の人生に似ているともいえる。彼もずっと寂しかったのだろうと思う。以来、父のこの最後の言葉を思い出すことが多い。もっといろいろ父と話すことがあったような気がしてならない。

2002年9月20日金曜日

〔再録〕荷風碑の誤植の責任者は誰か?


  荷風塾学校通信No7『荷風の誤植』    余丁町散人、2002.9.20
「荷風」と名が付く本で出れば必ず買うことにしていますが、今回出された矢野誠一のエッセイ集『荷風の誤植』(2002.8.20発行)も早速購入。また新たな発見をしました。三ノ輪の浄閑寺の荷風碑に彫られている荷風の詩の「ミスプリント」についてです。有名な詩なのであえて全文引用します(テキストは岩波の最新版「荷風全集」)。

<引用>
震災

今の世のわかき人々/われにな問ひそ今の世と/また来る時代の芸術を。/われは明治の児ならずや。/その文化歴史となりて葬られし時/わが青春の夢もまた消えにけり。/團菊はしをれて楼痴は散りにき。/一葉は落ちて紅葉は枯れ/緑雨の声も亦絶えたりき。/圓朝も去れり紫蝶も去れり。/わが感激の泉とくに枯れたり。/われは明治の児なりけり。/或年大地俄にゆらめき/火は都を焼きぬ。/柳村先生既になく/鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。/江戸文化の名残煙となりぬ。/明治の文化また灰となりぬ。/今の世のわかき人々/我にな語りそ今の世と/また来む時代の芸術を。/くもりし眼鏡をふくとても/われ今何をか見得べき。/われは明治の児ならずや。/去りし明治の世の児ならずや。
<引用終わり>

問題は、この詩の中で「圓朝も去れり紫蝶も去れり」とある「紫蝶」とは誰のことかと言うことです。これについて『荷風の誤植』で矢野誠一は「紫蝶」と名乗る人で圓朝と並び称するような人は居なかった。たぶん幕末から明治にかけて人気を博した新内語り富士松「紫朝」の誤植だろうとされているわけですが、その発見の経緯が面白い。実に川本三郎氏がわざわざ矢野誠一に手紙で聞いてきたというのです。

小生がこの「ミスプリント」についてはじめて知ったのは、1999年8月の江戸東京博物館での川本三郎の講演でした。矢野誠一はこの随筆を99年11月に書かれていますのでほぼ同時期ですので、川本氏は矢野誠一に確かめられたあと講演でお話になったものと思われます。一大発見とのことで会場は大いに沸きました。

小生もそうか誰も気がつかなかったのかと面白がっておりましたが、ところがその後、古本屋で買った磯田光一の名著『永井荷風』(昭和54年初版)を読んでいますと、その中で引用されている荷風の「震災」の文章はちゃんと「紫朝」となっていることに気がつきました。あわてて旧版の岩波全集(昭和39年)を見るとそこでも「紫朝」となっているではありませんか。でも最新版の岩波全集では「紫蝶」となっている。なんだか狐につままれたような気分です。

こうなると俄然興味がわいてきますので、いつもは読むことのない「校異表」なぞを引っ張り出して調べますとこういうことのようです。この詩が最初に活字になったのは1946年筑摩書房から出た『来訪者』で、そこには「紫蝶」と誤記されていたものを、中央公論社から出された「荷風全集」(1959年)ではだれかがこのミスプリントに気がつき「紫朝」と直したことがわかりました。その後出版された1964年の岩波版「荷風全集」でも正しい「紫朝」となっています。磯田光一は中央公論社版か岩波版かのどちらかの荷風全集から引用したので当然「紫朝」となるわけです。ところが岩波が1994年に最新版の荷風全集を出すに当たって、厳密に荷風の自筆原稿を確かめるとそこには「紫蝶」と書いてあった。あくまでも原本に忠実に記載するという編集方針も元に、あえて間違った「紫蝶」と元に戻したと言うことのようです。

荷風碑が建ったのは昭和34年に荷風が死んですぐあとだったと思いますので石碑には『来訪者』に書いてあるままを彫ったものでしょう。間違いに気がついて直した中央公論社の編集者は凄いと感心いたしました。さらに荷風の書き間違いをあえて元に戻してそのまま印刷するという岩波の編集方針にも敬服いたしました。でもそのおかげでいろんな混乱が起きたことも事実のようです。

何を細かいことを騒いでいるのだとおっしゃるかも知れませんが、荷風ファンというものはこのようなどうでもいいような細かいことに一喜一憂して大はしゃぎする人々なのです。このあたりの愉しみに淫することができないようでは、なかなか荷風ファンとは言えませんぞ。でもご安心ください。荷風が好きな人はだんだんそうなるのです。この駄文に興味を持ってここまで読んでくださったあなたも、そろそろそうなりかけている・・・。

最近小生の手持ちCDを整理していると新内のCDが出てきました。蘭蝶という色男に花魁が惚れるという「蘭蝶」という新内です。荷風はきっと紫朝が語るこの新内「蘭蝶」が大好きだったので、つい紫朝を「紫蝶」と誤記してしまったのではないかというのが小生の推理ですが、はたしてどうでしょうか。


追記)ここまで書いてきて、念のために川本三郎『荷風好日』(2002年2月)を読むと、川本三郎は後日、紫朝は若いときに紫蝶と名乗っていた時期があったという新たな発見をしたとの追記がありました(森まゆみ『長生きも芸のうちー岡本文弥百歳』に書いたあった由)。こうなってくると中央公論社の編集者が余計なことをしたと言うことになる。わかったと思ったらまた迷路にはまりこんでしまいました。荷風をめぐる事実関係は複雑怪奇です。奥が深いのう。











2002年9月15日日曜日

「長生きリスク」にどう対処するか

2002.9.15


今日は敬老の日。「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う国民の祝日」とのことです。お年寄りにはぜひ長生きして貰いたいものだと思います。でもそんなことを言う散人自身も、いつしかもう年寄りと呼ばれてもおかしくない年頃です。人生の現実の厳しさを前にして、そろそろ老後対策も考えなければならないようです。まず一番大切なことは老後を支える経済的基盤でしょう。いったい幾らあれば大丈夫なのでしょうか。

その点に関し「 老後のキャッシュフローを考える 」というホームページでとても参考になる解説があるというので早速読んでみました。執筆者は大手企業を定年退職され方ですが、具体的な例を挙げてとても説得力に富んだ計算を提示されています。正直言って驚きました。結論として年収1000万円以上の収入があった人が、生活程度をそれほど落とさずに、ゆとりある老後を過ごすには「公的年金以外に退職時に1億円必要」ということなのです。おまけにこの計算は平均寿命(男性は81歳)で死んでしまうことを前提としています。

今月厚生労働省が発表した全国高齢者名簿によると今月末までに百歳以上となる高齢者が1万7000人に達するとのこと。32年連続で過去最高を更新、どんどん長寿化の傾向を示しているとのことです。81歳まで生きることが前提で1億円ならば、100歳まで生きるなら2億円、120歳までなら3億円となります。たとえ退職時に1億円の蓄えがあるという幸運な人であっても、もし不運にも長生きしてしまったら、81歳以降はわずかな公的年金だけに頼る「惨めな生活」を送らねばならないと言うこと。これを「長生きリスク」といわずしてなんと呼べばいいのでしょうか。暗澹たる気持ちにさせられます。
もちろん計算の前提にはいろいろ議論があるかと思います。でも言えることはちょっとたいへんな事態と言うこと。年金システムは破綻仕掛けており、今更政府が何かしてくれることは期待できない。自助努力しかないでしょう。個人が出来る対応策とは、お金を貯めるというのは勿論でしょうが、他にどんなものがあるのでしょうか。基本的に二つしかないと思います。

一つは、定年後も収入を求め出来るだけ長く働き続けることです。ハッピー・リタイアメントは諦めなければなりませんが、たとえ収入が少ない仕事であってもトータル・キャッシュフローでは大きな違いとなって現れてきます。でも管理職を長く続けてきた人に出来る仕事と言えば、やはり管理的な仕事。老害をまき散らさないかが心配です。本人がフロアの仕事でもかまわないといって単純労働に従事するにしても、今度は就業が難しい若年層の仕事を奪うことにも繋がりかねません。 ただでさえ日本の高齢者は働き者で、高齢者の就業率はヨーロッパ諸国のそれの二倍にも達しています。これ以上高齢者の就業率が上がることは(たとえボランティアの仕事であるにせよ)決して社会的によい傾向ではありません。戦後のパージで企業と役所から年輩者がいなくなって日本経済はどれほど活性化したかは、源氏鶏太の『三等重役』を読めばわかります。それと逆のことが起きる。

もう一つは、ドラスティックな対応であるのですが、なにをもって「ゆとりのある」生活であるかとする基準を変えることです。つまりお金がなくても幸せに感じるように自分を訓練すること。若いときのように物質的な享楽に人生の幸せを求めることはそろそろ卒業し、むしろそれを軽蔑し、物質的なものでなく精神的なものに人生の幸せを求める生き方を目指すべきでしょう(開き直りですね)。これは仏教でいう悟りです。お釈迦様はやはり偉かった。

しかしお金を使わずに人生を楽しむには、それなりの基礎が必要です。スポーツにしても全くの下手なプレーヤーであれば本人も面白くないでしょうし、本を読むにしてもベースとなる教養がなければ楽しめません。お金を使わないでも幸福感を味わうということは、実は高等テクニックであり、基盤となるその人の教養次第です。それには長い準備期間が必要です。散人も、常々もっと若いうちからこの努力をしておけばよかったと反省しています。ルイ・ヴィトン店に群がる若者を見るにつけ、貧しさの反動としての顕示的消費フィーバーが日本でまだまだ続いていると感じます。そろそろ卒業してもいい時期じゃないかな。若い世代にとって、これが一番の老後対策、「長生きリスク」への対処法かもしれない。

高齢者が消費にお金を使わないのが経済低迷の原因とする俗説がありますが、気にすることはありません。日本経済にいま一番必要なものは一時的に総需要を押し上げるだけの消費需要ではなく、落ちてしまった経済の生産性を上げるための設備投資です。高齢者の金融資産という原資があってはじめて設備投資が可能になります。日本経済の将来のためにも、高齢者は過剰な消費に走ってはならないのです。自信を持ってお金は使わず質実剛健で行きましょう。