父のこと
亡くなった父、橋本幸次は、明治41年9月25日、富山県高岡の農家に生まれた。子供が多く生活は苦しかったようだ。ちなみに富山の米騒動は父が10歳の時に起こっている。大正12年14歳で上阪し洋服屋の丁稚奉公を始める。技術を身につけ大正14年に16歳で百貨店大丸に裁断士として就職。初任給は巡査の初任給は45円という時代に60円だった。数年勤務した後、独立し洋服店を開業。自転車で注文を取りに回る営業で徐々に商売を大きくし、戦後の混乱期も乗り切る。洋服小売では利潤がとれないと昭和26年には洋服小売店の上流部門である服地卸業に進出し、さらに昭和36年に関西ではある程度の名前が知られた食品会社の経営権を取得するなど、事業の幅を一貫して広げていった。97年に88歳で亡くなったが、その前日まで現役を引かず会社に車椅子で出勤していた。個性の強い人間で、独特の人生観を持っていた。時として周りの人間に辛く当たることがあった。ぼくは五人兄姉の末っ子として生まれたので、年齢的にも父親とはとても距離があり、あまり一緒に遊んで貰った記憶はない。一度天王寺の動物園に連れって行って貰ったくらいだろうか。でも父は子供たちにはとても気にかけていたように思う。自分に教育がなく苦労したことから5人の子供はどうしても全員大学にやると頑張った。あるとき景気が悪く手形の期限延長を頼まざるをえなかったとき、先方はうちの子供は大学にもやっていないのにお宅は女の子まで大学にやって良い身分だと嫌みを言った。父は即座に「だったらその代わり私がタバコをやめる」と言って禁煙の誓いを立て、以来死ぬまでタバコは吸わなかった。子供の入学試験には仕事をさしおいて付き添っていった。自分が付き添うと試験に通るというジンクスを信じていたからである。ぼくの大学受験のときすら、来ないとの約束にかかわらず、試験の日ボタ餅を持ってやってきた。
ぼくは父親とは幸いにして比較的いい関係にあった。それは年齢的に離れていたことと、一緒に過ごす期間が短かったから故に、適当な距離を置いた関係であったからかも知れない。中学高校は受験校だったのでほとんど部屋にこもりっきりだったし、大学では親元を離れて下宿した。家業とは関係のない民間会社に就職し、それも東京だったし、海外も長かった。年に一二度しか顔を会わさない状況が何十年も続いていた。個性の強い人だったから、いつも一緒に居る家族はたいへんだっただろうが、その点ぼくは恵まれていると思っていた。
でも人生の節目節目で父親の力にすがった。絶体絶命の状況に追いつめられたこともあるが、父は何も言わず精神的、経済的に支援してくれた。普段は憎まれ口ばかり叩いてとりつく島もないような父親だったが、いざというときは積極的に救いの手をさしのべてくれたのだった。おかげでまだぼくはなんとか生きている。
亡くなる二ヶ月ほど前、実家に帰って父の顔を見た。ほとんどものを食べない状態だったが、昔と変わらない長舌ぶりだった。さすがに辟易してお暇を取ろうとしたら、父の口から「おとんぼ」という言葉が出てきた。はじめて聞く言葉だったが、富山の方言で「末っ子」という意味で、「おとんぼ」は家族の中で最後に生まれてきた子供であり、よって親と一緒にいる時間が一番短く、親の愛情を最も少なくしか受けられない子供ということで、可哀想な存在と言うことらしい。「おまえはおとんぼだから可哀想だ」と玄関に出ようとするぼくに向かって、繰り返し、ぼくを見るために椅子から反り返りながら言った。ぼくにとってそれが父の最後の言葉だった。
ほとんど実家に寄りつかなかったぼくの人生だったが、父は、ぼくのそういう生き方を哀み、同時に自分の人生をそれに投影していたのかも知れない。思えばぼくの人生も14歳にして家を出された父の人生に似ているともいえる。彼もずっと寂しかったのだろうと思う。以来、父のこの最後の言葉を思い出すことが多い。もっといろいろ父と話すことがあったような気がしてならない。